いわゆるスピリチュアルな活動について、予てからうさんくささを感じていたところ、精神科医の名越康文氏が、スピリチュアルな体験の功罪と限界、必要な対処について分かりやすくまとめた文章をみつけた。
"医学書院/医学界新聞【〔連載〕生身の患者と仮面の医療者(4)(名越康文)】(第2739号 2007年7月9日
以下ポイントと思われる点を引用する。整理のため元の文章とは順番を入れ替えてある。
スピリチュアル体験の功
他者と何かを共有することによって,自分の底から沸きあがってくるような強いエネルギーを実感し,それを増幅していくことがグループ療法の肝であり,スピリチュアルな体験もそのなかで生じ,それこそそれまでの人生で体験したことがないような強い高揚感を味わうこともあります。
大事なことは,それが本人にとっては感動的な体験であり,自分の「本当の力」が開放されたように感じられる,ということです。
限界と罪の部分
身体を忘れて,意識だけの世界だけに閉じこもれば,人間は万能です。それこそ「悟りを得た」と感じること自体は,意識の世界だけに閉じこもってしまえば,案外簡単なのです。
そんな状態ではそれこそ,自分の家族を見ただけで,感動して涙を流してしまうかもしれませんから,日常生活は送れません。また,表面上はうまく取り繕っていても,内面で「私は神に会った,他の人間とは違う」といった状態が続いてしまうのは一番危険です。
必要な対処。碇としての身体と他者。引用は他者性の方。
「他者性」の碇も重要視されます。グループ療法の場合,それぞれの体験をグループでシェアすることで,公共的な世界に戻ってくることを忘れないようにする。例えば「瞑想してたら私の頭のうえにタヌキがたくさん出てきて」といった話をすると周囲が笑う。
そういう現実の他者とのコミュニケーションがあってはじめて,自分の脳内世界と物質世界の間での,自己の立ち位置を確認することができるわけです。
まとめ
しかし,そこに身体性・他者性の碇がなければ,悩みや劣等感を捨て,全能感のなかで生きることはできても,一歩踏み込んだ関係を他者と結ぶことは非常に難しくなってしまいます。
他者との価値観の違いや違和感というのは苦痛ですが,苦痛だからこそ,人はそれを吸収・消化するなかで,非常に端的にいうと,成長することができる。全能感の中に埋没してしまった人は,苦痛を感じない分,成長することもできなくなってしまうということです。
先にも申し上げたように,スピリチュアルな体験をすること,そこで感動を覚えること自体は実に簡単です。
しかし,そこに身体性・他者性の碇がなければ,悩みや劣等感を捨て,全能感のなかで生きることはできても,一歩踏み込んだ関係を他者と結ぶことは非常に難しくなってしまいます。
他者との価値観の違いや違和感というのは苦痛ですが,苦痛だからこそ,人はそれを吸収・消化するなかで,非常に端的にいうと,成長することができる。全能感の中に埋没してしまった人は,苦痛を感じない分,成長することもできなくなってしまうということです。
これらの特に他者性の碇と消化吸収という視点は、ニートの問題とか、空気読め問題(他者への価値観の押し付けを空気という反論不可能な状態を根拠に押し付けること)、ニセ科学論者が共通の認識を模索する議論ではなくディベート的な勝ち負けにこだわる話しかできないこと等に関連しそう。
これについては、もうすこし自分の言葉で消化して語れるようにしたい。